火の女神ジョンイ

16世紀朝鮮王朝時代、女性として初めて宮廷陶工「沙器匠」となった伝説の人物の波瀾万丈サクセスストーリーと、王子・光海君との純愛ラブストーリーを描くドラマティック史劇

16世紀後半、朝鮮第14代王・宣祖の時代。沙器匠(サギジャン)のイ・ガンチョンとユ・ウルタムは王命を受け、陶磁器製造所・分院(プノン)の最高官職・郎庁(ナンチョン)の座をめぐって勝負をする。宣祖は2人が作った茶器を気に入るが、仁嬪(インビン)キム氏とガンチョンの計略に陥ったウルタムは、無実の罪で分院から追放される。同じ頃、沙器匠の助役ヨノクは分院の窯の中で女児を出産。師匠のウルタムに娘を託し、この世を去ってしまう。ウルタムにジョンと名づけられた赤ん坊は、やがて陶芸よりも狩りや弓に夢中のおてんばな少女に成長する。ある日、ジョンは山の中で光海君と運命的な出会いを果たし、今まで感じたことのない胸の高鳴りをおぼえるのだった。そんな中、ウルタムは分院に戻る機会を得るが、ガンチョンが送り込んだ刺客に暗殺されてしまう。突然父を亡くして傷ついたジョンは、ウルタムを侮辱するガンチョンの言葉を偶然耳にし、沙器匠となって父の無念を晴らそうと決意する。それから5年後―。朝鮮一の沙器匠となるため、男装してテピョンと名を変えたジョンは、ひょんなことから光海君と再びめぐり合うが…。

百婆仙とは?

ユ・ジョンのモデルとなったのは、「有田焼の祖」と伝わる百婆仙(ペク・パソン:1560年~1656年)。本名は不明だが、容貌が温和で、100歳近くまで生きたことからこの呼び名で親しまれていたという。彼女は豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際、陶工である夫の金泰道(キム・テド/日本名:深海宗伝)とともに鍋島藩に連れてこられた朝鮮陶工のひとりだ。ドラマの中でキム・ボムが演じた“キム・テド"はジョンの幼なじみというキャラクターだが、実はこれが百婆仙の夫の名前なのである。 現在の武雄市内田村で作陶をしていた百婆仙は、1618年に宗伝が他界すると、良質な土を求めて一族とともに有田町稗古場へと移住。ここで指導者として作陶に従事し続け、96歳でこの世を去った。1705年には報恩寺の境内に彼女を称える石碑※1が建てられ、現在もその姿を残している。ちなみに、有田焼の原料である陶石は1616年に朝鮮陶工・李参平(りさんぺい/イ・サムピョン)によって発見された。この採掘場※2も有田の観光名所として愛されている。

※1 報恩寺(百婆仙の法塔)佐賀県西松浦郡有田町稗古場2-8-21
※2 泉山磁石場(国指定史跡)佐賀県西松浦郡有田町泉山1-5

分院とは?

王室で使用する白磁を製造した部署。『経国大典』の工典によれば、朝鮮時代初期は王室の食事全般を請け負う司饔院(サオンウォン)に380人の沙器匠が所属していたという。15世紀後半、陶磁器の需要が増えたことから、現地で作業過程を管理する目的で作られた官庁が司饔院の分院だ。ここでは宮中で日常的に使われる器、内医院の薬器をはじめ、祭器や王室の慶事の際に使われる特別な器などが作られた。分院は「山間に位置し、薪や良質の白土を確保しやすい」「原料や完成品の運搬に漢江(ハンガン)を利用できる」といった理由から京畿道の広州(クァンジュ)地方に設置され、燃料となる薪を求めて約10年ごとに移転を繰り返していた。1752年には分院の位置が広州市南終面文院里に固定され、1883年に閉鎖されるまで官窯として栄えた。現在、その跡地には朝鮮白磁の歴史を伝える分院白磁資料館が置かれている。

※分院白磁資料館 京畿道広州市南終面文院里116番地 http://www.bunwon.or.kr/

朝鮮白磁と沙器匠

機関の司甕院(サオンウォン)に所属して御用之器(オヨンジギ:王のための器)を作る陶工職人のことを指した。朝鮮初期、やきものの主流を占めていたのは高麗青磁の流れを継承した粉青沙器だった。15世紀に入ると、新たな技術によって作られた白磁が質素、潔白などを重んじる儒教思想とともに愛され、王室で使用されるようになった。19世紀後半の記録によれば、分院には100名あまりの沙器匠が所属し、約400人がその助手を務めていたという。1996年7月1日より沙器匠は重要無形文化財第105号に指定されており、現役の保持者には慶尚北道聞慶市の金正玉(キム・ジョンオク)氏がいる。金氏は200年以上もの間、沙器匠を輩出してきた家門の7代目。18歳より父に師事し、現在も聞慶の嶺南窯でろくろを回し続けている韓国の人間国宝だ。

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